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山本寛斎(デザイナー/イベントプロデューサー)

山本寛斎さんのプロフィール

 

 

 

1944年2月8日横浜市生まれ。

 

 

[歴史]

以下、寛斎さんがゲスト出演したこれまでの様々なテレビやラジオや

様々なインタビュー記事での本人発言を主に参考

 

 

 

少年時代

 

 

紳士服作りの仕事をしていた父のもとに横浜で産まれ、

その後、両親の離婚や父の転勤により高知・大阪などを転々としたのち、

小学校の高学年になったあたりからようやく岐阜に定住。

その頃から父が作る服を着るおしゃれ大好きな子供になっていき、デザイナーを目指すように。

 

そして中学校の頃から家にあったミシンで服を作るようになっていたが、

経済的な事情により大学進学は難しかったため、建築系の仕事を目指して工業高校の土木科に進学。

その後、建築系の仕事に就くことをやめ、父の経済状態も良くなり、

将来の方向性はわからなかったが、日本大学文理学部・英文科に進学することに。

 

 

 

 

大学時代

 

大学に進学したものの 、2年生の頃から校風に嫌気がさして学校に行かなくなるようになり、

日テレでのバイト活動などが中心になっていたところ、父の会社の経営状態が悪化し、

大学を休学し、岐阜に戻って家業を手伝うことに。

 

そして岐阜にて弟と共に縫製作業から納品作業・営業活動まで過酷な日々を送っていたところ、

雑誌に掲載されていた、「ZOZODAN」という若者グループの浜野安宏さんの記事を発見し、

感動してファンレターに仲間に入れてほしい旨を書いて送付したところ、

原宿まで会いに来いという返事が来たため、会社を弟に任せて再び上京し、

「ZOZODAN」のメンバーとしてファッションプロデュース関連の仕事を始める。

 

そして日大に復学していたが、本気でファッションデザイナーとして成功するために退学し、

ZOZODANの浜野氏の知り合いであったコシノジュンコ氏を紹介され、ジュンコのアトリエ入りすることに。

 

 

 

コシノジュンコ・細野久氏のアトリエ修行&「装苑賞」応募時代

 

 

1964年秋、20歳の頃からジュンコのアトリエでお針子として働くようになり、

昼間はジュンコのアトリエスタッフとして貴重な経験をたくさん積み、

夜間は若手デザイナーにとっての最大の栄誉である「装苑賞」の受賞を目標に、

スタイル画をひたすら毎日書く生活に。

ジュンコのアトリエ入りから約1年経った頃、今度は細野久氏のアトリエに移籍した。

 

「装苑賞」応募に関しては、当初は応募しても候補にも残らなかったが、

応募するごとに最終候補まで近づいていき、

ついに1967年には、賢三やジュンコ氏も受賞経験のある若手デザイナー最大の登竜門、第21回「装苑賞」を受賞。

 

 

 

海外での自身のセンスを絶賛され"LIFE誌 世界のカッコイイ男10人"に選出される

&日本人デザイナーとして初のロンドンでのファッションショーの大成功

 

 

その後、新宿の既製服メーカーに勤めていた頃、今度は雑誌でアメリカの自由なヒッピーの存在を知り、ヒッピー文化に大きな影響を受けて自分のやりたいデザインを追求することにし、務めていたメーカーを退職して独立。

そして、西武百貨店の幹部との出会いにより、西武百貨店の前衛的スペースに自身の服を置かせてもらえることになり、西武にて寛斎の服が大ヒット。一躍アパレル業界・マスコミ注目の人物に。

 

独立して少し経ち、海外に渡航できるお金ができたため、1969年にロンドンに渡航。

すると現地の人から自身のファッションセンスを賞賛され、

1969年に「ライフ」誌の"世界のカッコいい10人の男"特集にスナップが掲載され、

自分の感覚は世界で通用することを確信。

アメリカに渡った時も現地の人々に声をかけられるほとファッションセンスを絶賛された。

 

以後、1971年には「株式会社やまもと寛斎」を設立して本気で世界を目指すことを決意し、

スタイリスト・高橋靖子の助けを借りて1971年5月、ロンドンで日本人初のファッションショーを開催。

 

歌舞伎の要素を取り入れた服のデザイン・ショーは大成功を収め、

Dボウイ・エルトンジョンといったアーティストから早速声がかかるようになり、

1970年代前半から若くしてデヴィット・ボウイの衣装などを手がける他、

Dボウイがアメリカ初公演にて寛斎のショーをそのまま真似て寛斎の服を着てライブをしたことから、

アメリカでも一気に注目を集めるようになり、アメリカでもデザイナーとして大ブレイクを果たす。

 

 

 

第1回パリコレの失敗とその後の世界的成功

 

 

その後、勢いに乗った寛斎は、1974年3月に初めてパリコレに参加。

しかし、準備不足などもあり、賞賛の声の一方でショーのコンセプトなどを酷評をされ、

またショーの莫大な費用と当時のオイルショックなどが原因で会社が倒産寸前の状態に。

 

一時、死まで考えるものの思いとどまり、その頃に産まれた娘に「未來(山本未來のこと)」という名前を付け、

大事な娘の誕生を機に一念発起してアメリカでの売り込みを開始。

 

エンターテイメント重視のショーは自粛してファッションデザインだけに集中し、

地道な活動が実って1975年10月の1976SSシーズンよりパリに復帰、

また1979年からはNYコレクションに初参加、

その他、東京コレクションにも参加するなど見事に復活し、

世界各地に直営店である「ブティック寛斎」をオープン。

 

特にミュージシャンには寛斎ファンが多く、デヴィドボウイをはじめ、

キースエマーソン・エルトンジョン・Sワンダーなど世界的なミュージシャンとの交流がある。

 

 

総合的プロデューサーへの転身

 

 

その後、1992年頃まで世界有数のファッションデザイナーとして第一線で活躍してきたが、

自身の表現したいことが再びファッション分野だけには収まらないようになっていき、

ファッションデザイナーとしてのキャリアには一つの区切りをつけ、

1993年には"赤の広場を使用するはじめての外国人になる!"と意気込み、

自らロシア政府の説得や、国内での地道な資金集めを担当し、

モスクワの赤の広場にて山本寛斎スーパーショー「ハロー・ロシア」を開催が実現。

12万人もの大観衆が詰めかけ、当時のエリツィン大統領も鑑賞していたと言われるほどの

大イベントを成功させ、この経験が転機となり、以後はイベントプロデューサーが主な仕事に。

 

その後も、1995年のベトナム・1997年のインドとスーパーショーを開催し、

それらは世界中のメディアで放映されて国力の勢いのすごさのアピールとなり、

その国が外国から投資を受ける上でも大きく貢献してきた。

 

近年は日本の様々なテレビへの出演も多く、かくし芸大会の審査員もつとめてきた。

 

2000年代に入ってからも国内外にて様々なショーを開催し、どれも成功をおさめ、

2006年5月には埼玉スタジアムにて、サッカー日本代表の壮行イベントも開催し、大きな話題になった。

 

 

 

2013年に42年ぶりにロンドンでショーを開催

&その新作をデヴィッドボウイを敬愛するレディーガガが着用して大きなニュースに

 

 

2013年秋には、ロンドンの「ビクトリア&アルバート博物館」主催のイベントにデザイナーとして招待され、

ロンドンでの42年ぶりのショーを開催して大成功させ、日本でも大きなニュースとなった。

 

その後、ロンドンのショーでの作品をみたガガ関係者から来日時に着る衣装を貸してほしいというオファーが入り、

2013年11月にレディ・ガガが来日して「ミュージックステーションSP」に生出演した際、

デヴィット・ボウイやエルトン・ジョンから大きな影響を受けてきたと公言しているガガが、

寛斎氏新作のカラフルな浮世絵風のパンツを着用して出演し、こちらも翌日大きなニュースに。

 

 

その他、来日中に会ったと思われる寛斎さんとガガさんの2SHOT写真が寛斎公式ブログに掲載され、

その写真でもロンドンでの新作"着物パンツ"を着用するなど、

ロンドンショーで発表された新作を来日中に多数着用したことが明らかになっている。

 

また、同時期にその時点で全世界4000万人以上のフォロワー数を誇る、

ガガの公式ツイッターにて、山本寛斎のことを「He is a genius」とツイートした。

 

 

 

2014年、約20年ぶりにアパレル事業が復活

 

2013年のロンドンショー開催と、同時期に開催が決定した2020年の東京五輪開催決定に刺激を受け、

2014年から約20年ぶりに「カンサイヤマモト」のアパレル事業を復活させることが決定。

ガガ着用で世界中の注目を集めており、2014年以降のグローバルな活動に期待がかかる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

豆知識

 

 

  • 娘は女優の山本未来。一緒にメディアに登場するようなことはないが、度々メディアで話すことの中にお互いが登場する。1974年にパリでのショーに失敗し絶望の底にいたころ、"神様、どうか私に未来をください"という想いから命名され、未来の誕生から寛斎の復活がはじまった。
  • 大学時代に日本テレビにて裏方スタッフのバイトをしていた時期がある。
  • 大学生の頃、優勝者への副賞のパリ往復の航空券目当てでシャンソン・コンクールに出場したことがある。なお、その時の優勝者はあの加藤登紀子であった。
  • 世界的なミュージシャンのデビッド・ボウイは「僕のビジュアルを決定づけたのはカンサイだ」と公言している。
  • 俳優の伊勢谷友介とは親子ほど年が離れているが、腹違いの兄弟。

 

 

 

 

山本寛斎と高橋靖子

 

 

高橋靖子とは?

 

日本のスタイリストの草分け的存在。

広告関連会社を経て、1960年代からフリーのスタイリストとして活躍。

その後、多数の世界的ミュージシャンのスタイリストとして活躍してきた。

 

 


 

 

 

寛斎の歴史を語る上で欠かせない人物がスタイリストの草分けと言われる

トップスタイリストの高橋靖子さん。

寛斎からとは古くからの友達で「ヤッコ」と呼ばれている。

 

1971年に寛斎がロンドンでショーを開催したいという大きな目標を聞いて賛同し、

実現に向けて先にロンドンに渡って得意の語学力をいかして現地で様々な営業活動を行い、

多数の協力者を集めることに成功し、ショー開催の準備を整え、

高橋さんのおかげで多数のマスコミも当日集まった中でショーを開催することができ、

ショーも大成功して寛斎が世界的デザイナーになる上での大きな影の立役者となった。

 

高橋靖子ツイッター

 

 

 

 

 

関連映像

 

以下は公式的ではない映像。

いつ削除されるかわからないので見られるうちにご覧になることをおすすめします。

 

 

■YouTube「Atelier LeonLeon」チャンネル 1985年頃のショー映像

5分35秒頃からkansaiのショー映像部分。6分55秒過ぎには山口小夜子が映る。

 

 

 

 

 

 

 










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